情熱があるから行動できるのではなく、行動することで情熱が湧いてくる

私自身、プロジェクトを進めていると、「百々さんは厳しい」と言われることがよくあります(笑)。
いつも、「どうしてやらないの?」と、歯がゆい思いをしてきたのですが、先日、ある人に「百々さんは目標値が高いけど、実はみんなそこまでのものを求めていないんですよ」と言われて、なるほどそうだったのか…と理解できました。

たまに、人はそれを「情熱」というけど、私自身、普段はそんなに情熱的ではないんですよね。。

「夢は何ですか?」
と聞かれても、特に思いつかないし、年商をいくらにしたいとか、有名になりたいとかもありません。

目の前にいただいた案件に、直観で反応して、「これはどうしても無理」と思うもの以外は、「とりあえずやってみる」というのが私のスタンスです。

もちろん、はじめから「面白そう!」と思うものもあれば、正直、「やる意味あるのかな」と思うようなものもあります。でも、進めていくうちに、はじめどう思っていたかなんて忘れてしまうし、「もっとこうした方がいいんじゃないか」というアイデアがどんどん湧いてきます。

「やりながら考えるタイプ」というより、「やってみないと何も思いつかない」というのが正しいです。

先日、こちらの本を読みました。
思考のコンパス ノーマルなき世界を生きるヒント
山口周 著

対談形式なので、あっという間に読めます。
高橋祥子さん×山口周さんの対談の中で、東京大学・池谷裕二教授の「人間は、行動を起こすから『やる気』が出てくる生き物」という話にとても共感しました。

こちらの記事もご参考ください。
「簡単にやる気を出す方法を教えてください!」
→脳研究者「やる気なんて存在しない」

本書の中で、高橋さんも「情熱が湧くとは、生物学的にはドーパミンが放出されている状態だと思いますが、体を動かすことでドーパミンは放出されます。情熱があって動くのではなく、まず体を動かして、行動してみて、初めて情熱が芽生えるのだと思います」と仰っていました。

そう考えると、私もそうだと言えます。
意外に私は単純なんですよね。まずやってみる→没頭する→情熱が湧く→アイデアが溢れてくる→目標値が高くなる。はじめから高い目標値を設定している訳ではないんです。

今は、「とりあえずやってみませんか」と提案して、相手が動いてくれるためにはどうしたらよいのかというのが悩みです。結構、動かない人が多いものです。「一緒に散歩しませんか?」とお誘いした方がよいのかなと本書を読みながら思い浮かべたりしてみました。

「教養」があるとはどういうことなのか

さて、本書の冒頭「はじめに」にあったのはコチラ。
多くの分野にまたがる知識を蓄えているクイズ王のような人物が「教養のある人」なのではありません。そうではなく、「複雑で曖昧な状況において、その人らしい決断ができること」を「教養がある」と言うのです。

本書の帯には、
「先の見えない時代に一歩を踏み出すために ―。
『ぶれない指針』を持つ7人との対話」
とあります。

「教養」というとどうしても博識のイメージがありますが、「教養=自分の中にあるぶれない指針」なんですね。

私自身、自分のぶれない指針は、ある人からの言葉で気づかされました。
「あなたは強い人には吠えるのに、弱い人には優しいのね。もっと強かにならないと損をするタイプよ」。

そうなのか。
確かに、損をしていることが多いとは薄々気づいていましたが(笑)、言われて気づきましたと。

幼少期から、人と同じことが嫌と思っていた私は、メジャーよりもマイナー、流行より伝統、有名な人の功績よりも無名な人の才能に惹かれる傾向があるのだと。世の中の人が注目しているものとは別の方向に目が行ってしまうのは私の中の「ぶれない指針」なのかもしれないと思うようになりました。

私は、その方の言葉で強かにはなれませんでしたが、何かを決断したり構想する際に、そのことを意識できるようになりました。無意識だった頃よりも、そうした決断をした時に、「あなたらしい」と言われることが増えたようにも感じます。

その方にその言葉を投げかけられた時、私は「強かになれということなのか?」と、一瞬不愉快に思ったのですが、時間をかけて、きっとそうではなかったということにも気づきました。「それがあなたの魅力だからそのまま突き進みなさい」という愛のこもったアドバイスだったのだと。

本書の魅力、7人の「ぶれない指針」はぜひ手に取って読んでいただきたいのですが、冒頭の「はじめに」にある山口周さんの言葉をもう一つご紹介させていただきます。

私たち日本人は「普通」が大好きですが、仮想空間シフトによる反都市化が進む社会では、「普通の働き方」というイメージは概念として霧消してしまうことになります。
日本では「普通であること」が過度に重視され、「普通でない」ことが批判の対象となりますが、なぜそういうことが起こるのかというと、「普通であれ」という脅迫に屈してワガママであることをあきらめてしまった人は、自分の個性を圧殺したという罪悪感から、脅迫に屈せずワガママであることを貫いて楽しく生きている人が許せないのです。同じようにできなかった自分の情けなさ、不甲斐なさ(略)まさにコンプレックスを抱くのです。

つい最近も、思ったことをそのまま伝えて、やっぱり私って変わってるよねと我ながら思ったプロジェクトがあったのですが、それが私なので仕方ないと思いました。みんなと同じ(普通)の感性しかなければ、私の存在価値ってあるのかなと。

また、最近気づいたのですが、人と違う意見を持つというよりも、「自分の意見を持つ」ということ自体が「普通ではない」のかもしれないと。

本書で、養老孟司先生が学生に問いを投げかけたら「そういうものだと思っていました」という回答があったというエピソードを語られていましたが、そんな風に無意識に考えることを放棄している大人も多いのかもしれません。

「そういうもの」だと思っているところに、いきなり「自分の意見」をぶつけてくる私に戸惑ってるのだろうなと思うシーンが過去も含めていくつも思い起こされます。批判ではなく戸惑い。。

いずれにしても、自分の意見やぶれない指針というものは、孤独を招きやすいものです。孤立や孤独感に耐えられるメンタルが必要ですね。
昔はそのたびに車の中など一人になれる空間で涙を流していた私も、最近はもうすっかり慣れたのですが、、たまに辛いときはこちらの名言を思い出すことにしています。

あなたが「ぶれない指針」で決断した時に孤独を感じてしまうことがあったら、それはあなただけではないということを思い出してくださいね。